一日一写!チェスキークルムロフの歴史に触れる

チェスキークルムロフ」ちょっと歴史のウンチクに触れたいと思います。

チェスキークルムロフチェコ南ボヘミア州の小さな都市である。

チェスキーは「南ボヘミア州の」の意味で、クルムロフは

「川の湾曲部の湿地帯」を意味する。

下の写真を参考いただければ一目でご納得いただける。モルダウ川沿いに都市が建設されたことがわかる。

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 13世紀の後半に町と城の建設が始まった、当時、この地はクルマウと呼ばれ(のちのチェスキークルムロフボヘミアの有力貴族、ローゼンベルク家のものとなる。

何処の国も栄枯盛衰は共通である、16世紀、ローゼンベルク家が次第に力をなくし神聖ローマ帝国の手に渡る。その後も有力貴族の手に渡りながら、栄枯盛衰を繰り返し、19世紀の産業革命期に入ったが、この町はその地理的な理由から主要な鉄道網から外れ、工業化の波から取り残され、町は穏やかに衰退していった。

19世紀後半にはオーストリア=ハンガリー帝国の一部となった。

クルマウはその地理的条件もあり、ドイツ語が有力な時代が長かったが、支配階級のドイツ系住民と被支配階級のチェコ系住民は生まれた時から決まった民族間のヒエラルキーのもとで共存してきたが、民族主義が帝国全土を揺るがすようになり、神聖ローマ帝国時代から続く、その共存は終わった。

第一次世界大戦の敗北に伴いオーストリア=ハンガリー帝国が崩壊すると、町はチェコスロバキア領となり、町の名前もクルマウから「チェスキークルムロフ」となった。

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第一次世界大戦、そして第二次世界大戦と進むにつれドイツ系住民は追放された。

そのため町は荒廃し無人化が進んだ。荒廃が進んだ理由は1948年の共産主義化による歴史的建造物の価値否定がさらに拍車をかけた。

1960年代以降に「プラハの春」が訪れた、歴史的建造物のが徐々に補修されるようになった、歴史的景観の再評価に伴い急速に建造物の修復が始まった。尚、1945年から1990年の前半まではチェスキークルムロフの中心部は「ロマ」と呼ばれ、主に北インドを起源とする移動民族で、欧州における「ジプシー」の最大勢力である。

近年はチェコ人との同化も進んでいるが、現在も激しい差別が根強く残り民族浄化のための「ロマ」への強制断種政策が続いている。断種とは不妊手術である。

 

ユネスコ世界文化遺産に登録されたのは1992年だ

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