7月17日のブログ「短編!あの日、あの遠い夏の記憶・・・。」掲載写真に「何かが写り込んでいる」と反響があったものですから、写真を拡大し追加、「ここです」怖がらずに見てください。

「初めて乗った救急車」

もう半世紀も前のことだ。それでもあの日、あの頃の出来事をはっきりと昨日のことのように覚えている。長い夏休みが終わり、その日は久しぶりの学校だ、憂鬱だった終わらない宿題も、校舎や校庭の裏手の樹々にうるさいくらいにこだまする蝉の鳴き声が忘れさせてくれた!

PENTAX K-1 15-30にて撮影、八ヶ岳山麓を背に入笠山! 

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残された昼休みの時間にいつものように皆で校庭に繰り出した、遊びと言っても田舎の小学校のことだから、広い校庭を走り回ったり、学校の裏手で蝉を採ったり、夏休みにどこへ行ったとか、何か変わったことがあったなど、たわいもない話で盛り上がるくらいだ。遊具というほどでないが広い校庭の隅っこに竹登りと雲梯(うんてい)があった。僕は友人らと雲梯で遊んでいた、その時だった、雲梯にのぼる鉄の階段に足を引っ掛けてしまい、運悪くそのままお腹を地面に直撃した。

痛っ!と思ったが一瞬のことで何もなかったように教室に戻った。

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午後の授業が始まった頃だ、どうもお腹がチクチクと痛む、だんだん我慢の出来ない痛みに変わり、周囲の友人たちの「大丈夫か」という声も聞き取れないほど、とうとう痛みに耐えきれずにその場に倒れ込んだようだ。意識は少しあったから担架で救急車の中に運び込まれるまでは覚えている。その後は全く意識はない。

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急性盲腸炎だ、夏休み中の暴飲暴食がたたったようだ。救急車の行き先は富士見高原病院、学校から僅か10分ほどの場所にある。どこの誰が病院に担ぎ込まれたなどはすぐに噂になるような狭い町だ。急性だからすぐに手術をしなくてはならない。

麻酔も始まり既に意識はなく、この後の話は母から聞いた。

手術は順調に終わった、少し輸血が必要になったようで同じ血液型の方から提供いただいた、病室には母がおり、医師が輸血を終え病室を出た直後らしい、僕の体が震え始め痙攣状態になった。母は相当気が動転したようだ。

血液製剤に問題があったようで細菌感染症の一つ、敗血症になった、原因は病院側に不手際にあった、今でいう、医療ミスというやつだ。手に負えない病気のようだ。

敗血症は感染に対する生体反応に起因する、生命を脅かす臓器障害とある。厄介なことに当時の医療レベルでも死に至る確率の方が高い。こんな症状を覚えている、高熱が続く、体が動かない、やせ細る、髪の毛は抜け全身の皮も剥けるなどである。皮が剥けるとは酷い日焼け後に皮がペロンと剥ける、あれと同じだ。面白いように皮膚を覆っている皮が剥ける、よく看護婦さんが来て手の届かないところを手伝ってくれた、足の裏は皮が厚いせいか中々、簡単にはいかない。今でも実家に足裏の皮が大事にしまってある。

父から聞いた話では、医療ミスについて随分と病院長を責めたようだ。

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入院したのは富士見高原病院、八ヶ岳山麓に1926年に富士見高原療養所(富士見サナトリウム)として設立、不治の病とされた結核の高地での長期療養を目的としたサナトリウムだ。白いペンキで塗られたコンクリートの二階建てで、僕が療養した40年後も当時と何も変わらない、病室は二階だ、ベランダがあったが一度もそこに出ることはなかった。

富士見高原療養所(富士見サナトリウム

初代病院長は正木不如丘(まさき ふじょきゅう)、本名は俊二、作家としても著名で当時、結核に病んでいた「堀辰雄」「竹久夢二」「横溝正史」などの文人もその関係で療養していた。竹久夢二は治療の甲斐もなくこのサナトリウムで50歳の生涯を閉じた。

代表作「風立ちぬ」で知られる堀辰雄自身も結核を患い1931年の4月から3ヶ月間、富士見高原療養所に入院。帰京後も病に伏せることが多く、1933年、軽井沢で執筆した中編小説「美しい村」の「夏」の章で描かれた矢野綾子との出会い。その矢野綾子も肺を病んでいた、1935年に二人で富士見高原療養所に入院するが綾子は同年12月6日に死去。

この体験が堀の代表作として知られる「風立ちぬ」の題材となり1936年から1937年にわたり執筆された。

作中にある「風たちぬ、いざ生きめやも」ポール・ヴァレリーの詩、「海辺の墓地」の一節を掘が訳したものである。

1935年の4月下旬、堀は婚約者の綾子(作中では節子)を伴い富士見駅に降り立った。作中で「物置小屋と大してかわらない小さな駅に停車した」とある、それが今の富士見駅だ。

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この写真は実際に闘病生活をした富士見サナトリウム!2005年頃に撮影した。病棟としては機能していない、すでに新しい病棟が立っている、中に入ったが物置のようになっていた。老朽化で2012年、9月に取り壊されたことを後から知った。ここで死の淵を彷徨ったことを思えば私にとって取り壊されたのはとても残念だった。

 

僕が居たのはこの二階の病室だ!ここです!

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窓の右半分の上と下に「顔が」、上は微笑んで目を閉じ右に向き、下は正面下を見ている。

左半分には「首のない黒髪で白い着物を着た、しかし首から上が無い・・・」

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当時、結核は治らない病気だ、このサナトリウムで多くの人が亡くなっている。

「風たちぬ」の作中で、節子は二階の一番端の病室に入った、背後には雑木林・・・とあるが病棟はわからないが、同じ病室の可能性もある。

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*現在の富士見高原病院外観と院内。2016.6月撮影。

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当時のサナトリウム裏側になる、雑木林とまでいかないが、当時の面影も残っている・・・

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「もう長くは生きられないかも知れない」そう思った

入院してからどのくらい経ったのだろうか、毎日が退屈だ、病室の窓から入ってくる風も秋の風になったような気もする、相変わらずベッドに寝たきりだ、痛いとかだるいなどはない、只々、体が動かない・・・・。小学三年の夏の終わりだが、

体力には自信があった、運動神経だって走る・飛ぶことにかけてはクラスでは一番だ、それが今はどうしたことか・・・・。

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或る日、父がやってきて「自転車か、カメラを買ってやる、どっちがいいか」と聞かれたので一晩考えて「自転車がいい」と答えた。何で?と思いながら誕生日はとうに過ぎたが・・・。翌朝、目がさめると病室の隅にピカピカのスポーツ車が置いてあった。

真新しい自転車を横目で見ながら、体も動かないのに、なぜ?自転車を買ってくれたのか?それともそのうちに乗れるようになるんだろうか、そんなことを考えたりしていた。

毎日のように僕の顔を見に来ていた父と母、それが二日に一度、三日に一度・・・一週間に一度と来る回数がだんだん少なくなった、たまに父が来たり、母が来たり・・きっと家のことなどが忙しくなったのだろう。寂しいものだ、寝たきりだから誰かが来ることだけが楽しみだ、看護婦さんが来る回数も減ったような気がする、トイレの時は手元にあるブザーを押せばいい・・・・・。

 

これも退院後に聞いた話だ。「お子さんはもう手の施しようがない、助からない、申し訳ない・・・」病院長は父に何度もそう告げるが、納得のいかない父は毎日のように病院長を責めたようだ。

もう助かる可能性が無い息子を病院に見舞いに来る親の気持ちとはどういうものだろうか、想像がつかない、代わりたくても代われない!どんどん痩せ細っていく息子。

顔を見るのも辛い、おそらくそうでないか。

 

突然「夢のような不思議な光景」の中へ・・・

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突然、目の前が真っ暗になった、真っ暗闇の中にいることがわかる。なんだろうと思う、そうしたら遠くの方にこんもりした小さい山のようのものが見えた、なんとなくそれが近づいてくる、土を盛ったかのような小さな山だ、目を凝らして見ると細い竹がたくさんある、小さな竹林のようだ、竹の笹が風に静かに揺れている、笹が擦れ合う音が聞こえてくるようだ、今見ている光景はなんだろう・・・。

そうしたら今度は竹林の中に白いものが見えてきた、なんだろう、はっきり見えてきた、三角形をした白い布のようなものだ、それがこっちに近づいてくるような感じがした、それとも僕が近づいているのか、不思議な感覚だ、よく見ると白い布の周りに長い髪の毛が揺れている、女の人だ、顔はない、肩よりももっと長い髪だ、三角の白い布を覆うように長い黒い髪が揺れている、髪の毛が一本一本よく見える、周りの笹と同じように長い髪が揺れている、よーく見ると白い着物を着ている、白い着物に三角の布が丁度、顔のあたりにある、でも顔はない、周りの笹の葉と長い髪の毛、そして白い着物が静かに揺れている、そうしたら次は右手をスーと上げてきた、白い着物の袖の先に白い手が見えた、女の人の手だ、僕に向かっておいで・おいでを始めた、その白い袖、白い手で僕を呼んでいる、おいで・おいでと・・・・。

不思議な光景だ、僕を呼んでいる?他に誰もいない、確かに僕を呼んでいる、そう思った、僕に向かって手招きをしている、なぜ?僕を呼んでいるのか、それが不思議で不思議で仕方ない、僕を呼んでいる・手招きしている光景ははっきりと鮮明に今でも覚えている。

 

そうしているうちに急にあたりが明るくなった、真っ暗闇に笹が揺れるこんもりした小さな竹の林の中から僕を呼んでいる髪の長い女の人はもういない。

目に入ってきたのは沢山の顔だ、ベッドに寝ている僕を沢山の顔が見下ろしている、あまり来なかった父や母、兄、親戚の人、近所の人、看護婦さんや病院長・・・。

歓喜に満ちた顔、驚く顔、泣いている顔・・・。もう今日あたりが一番の山ですよ、皆さん、息子さんの最後を見届けに来てくださいと集まった方達が、一斉にその感情をむき出しにした瞬間だ。

 

最期です・・・幸せそうな顔でゆっくりと目を閉じたようだ・・・、傍に置かれた心電図のモニターの波形の異常な動き、少しづつゆっくりとゆっくりと死に近づいていることが医療機器の素人でも、その波形を見ているだけで命の儚さを読み取れたようだ、いまさら手の施しようもない、もう諦めるしかない、最後を見届ける父と母、手を合わせる人、僕の名前を呼ぶ人、死ぬなーと叫ぶ声、手を握る人、体を触る人、すすり泣く声、号泣・・・病室内は急ぎ足で死に向かっていく一人の少年のために皆、それぞれの想いや無念さを露わにした。

 

皆、相当びっくりしたようだ!それはそうだ、最期のお別れにきたのに目を醒ましたからだ。本当はびっくりしたのは僕の方なんだが・・・。今まで来なかった人たちが目を開けたら大勢いたからだ。

 

「回復に向かう」

食事はお粥に煮豆など消化の良いものだが、毎日のようにプリンが付いてくる。子供だから食事に飽き飽きしているだろう、何が好きなものは無いか?と聞いたらしく、どうも「プリン」が好物だと言ったようで、食事を作るおばさんが僕だけに特別に作ってくれたと後から知った。

リハビリが始まった、まずは自分の足で立つこと、それから歩くこと、みるみるうちに回復した。病院長や看護婦さんたちも一安心だったろう、随分とお世話になった。

また親戚以外に知らない人たちが沢山、見舞いに来てくれた。小さな町だから「生き返った子を一目、見ようと噂を聞いてきたのか!そんなことはない。

 

「退院」

入院から約3ヶ月、いよいよ退院の日だ、父が車で迎えに来た。入院後、初めて外の土を踏んだ。辺りの景色を見たら、病院の庭にあのこんもりした小さい山があった。そっくりだ、小山の囲いの形もそっくりだ、あそこから女の人に呼ばれた・・・父と母にはあれが夢に出てきた小山であることを伝えた。揺れる笹、白い着物の女の人、懐かしい想いがした。病院中の全ての人が見送ってくれた。

 

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高校生くらいだろうか、書店で目にした堀辰雄の「風たちぬ」!

初めて知った堀辰雄、富士見サナトリウムのこと。

 

もう半世紀も前のことだ、毎年、夏になると「あの日、あの遠い夏の記憶が蘇る・・・」

病院中の人が見送ってくれた、車に乗り込む時に、ふと目をあげると あの青々とした竹の小山が目に入ってきた。 これだ、これだったのか・・・。

長い黒い髪を揺らしながら、優しくおいで・おいでと手招きしていたのは ここで亡くなった節子なのだろうか・・・・。 完